3月11日、午後2時46分。宮城県・気仙沼湾の入り口にある高台に、津波で身内を失った遺族ら約150人が集まり、海に向かって手を合わせた。
一角にある慰霊碑には、こう刻まれている。
この悲劇を繰り返すな 大地が揺れたらすぐ逃げろ より遠くへ より高台へ
建立から10年、東日本大震災から11年。自らが書いたこの3行を、誰にどう受け継いでいくのか。遺族で語り部の一人、小野寺敬子さん(60)は海を見つめ、思いを巡らせていた。
慰霊碑にほど近い「震災遺構・伝承館」で働く。コロナ禍のなか、1時間おきに館内を消毒して歩く。屋上への扉から高台と慰霊碑が見える。そこで必ず一礼する。視界の向こうに、父を奪った三陸の海がきらめく。
指定避難場所だから
碑がある気仙沼市の波路上杉ノ下(はじかみすぎのした)地区は、過去に何度も津波に襲われた。震災前、市は小野寺さんの父ら住民とワークショップを重ね、1896年の明治三陸大津波でも浸水しなかった標高約12メートルの高台を避難場所に指定していた。だが、津波はそこに避難していた約60人をものみこんだ。
小野寺さんは間一髪で逃げのびた。「指定避難場所だからと言って安心してはいけなかった」。流された自宅跡を歩きながら痛感した。
父を含め、地区の犠牲者は住民312人のうち93人。遺族会ができ、広報や事務を引き受けた。妻と母を亡くした佐藤信行会長(71)から「碑に刻む教訓がほしい」と頼まれ、絞り出したのがこの3行だ。
碑が建ったのは震災1年後の3月11日。遺族ら数百人が参列した。それ以来、月命日には献花が絶えない。毎年3月11日には記者やカメラマンも集まる。積極的に取材を受けた。
七回忌 連絡とれぬ遺族 集まらぬ会費
七回忌を迎えるころ、会費の集まりの悪さに気づいた。復興公営住宅に入ったり、各地で自宅を再建したりして、連絡の取れない遺族が増えた。小野寺さんも仮設住宅を出て新居を再建するため新たなローンを抱える一方、医師からがんを告知されてもいた。
それでも3月11日の集まりはおろそかにできない。あいさつを考え、会場を準備し、僧侶を手配する。資金不足の中、ときに自腹を切って続けた。昨年3月の震災10年。コロナ禍にもかかわらず、慰霊碑には100人以上が集い、こうべを垂れた。
「やはり特別な場所なんだ」。改めて遺族会の意義を感じたが、担い手不足は否めない。十数人いた役員のうち数人はすでに他界した。碑の掃除は、管理は。「指定避難場所でも安心してはいけない」という警告を、誰が伝えていくのか。
震災前、三陸には津波への警戒を呼びかける石碑が各地にあったが、年月が経って風景に溶け込み、誰も注意を払わなくなっていた。震災後、あちこちに慰霊碑やモニュメントができたが、みんなどう継承していくのだろう。
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル